新型コロナウィルスで学校が突然休校になったり、分散登校が続いたり、子どもたちの「学び」に影響が出ています。そして、不登校の子どもたちが、さらに増えているという報道…。
教育現場にいて、不登校の子どもたち、または登校しぶりがちな子どもたちと接してきて、「不登校」について長年自分なりに考えることがありました。
「不登校ってだめなことですか?」
「先生は、不登校についてどう思いますか?」
という質問もたびたび受けてきました。そこで、わたしが答えていたことは…
お子さんが安心して学校に来られる状況、
学校に行ってみようと思える状態でないのであれば、
無理に学校に来させるようなことはしたくありません。
わたしは、もともと「不登校=だめなこと」とは思っていません。登校できない、または登校したくないと思った子どもには、それなりの理由があるからです。その気持ちに寄り添わずに、学校に行くことだけを目標にしている先生も少なからずいるようです。でも、それでは、何も解決していません。
「不登校」といっても、一人ひとり状況が違うもの。不登校のきっかけも、はっきりしている子もいれば、自分でもよくわからないという子もいます。大事なことは、「今、何ができるか」。常にそれを考えて、子どもたちに接してきました。すぐ登校できるようになった子もいれば、1年間教室に入ることなく、家庭訪問で交流を深めた子もいます。
そんな経験から、今日は「不登校の子どもたちが増え続けるわけ」を元教員という立場から、お伝えしてみたいと思います。
少しでも「不登校」の子どもたちの気持ちや立場の理解につながればと願っています。
不登校の子どもが増え続けるわけ① 「一斉授業」の限界
新卒で教員になったころは、何も感じなかった「一斉授業」。先生が教え、子どもたちはそれを学ぶ。一人ひとり習熟度が違っても、授業はほぼこの一斉授業で進んでいく。それが、当たり前だし、それに困っている子もほとんどいないように感じていました。
それが、7年ブランクをあけ、再び教員に戻ったとき、
あれ?
何かが違う気がする…
今までの方法ではダメなのかも
はっきりと違いを感じました。「一斉授業」だと、そこについてくることが難しい子がいる。習熟度に明らかな差があって、一斉で進めると「わからない子はわからないまま」授業を受けることになる。それを強く感じました。
そこで、個別学習の時間を大切にしたり、お互いに教えあう時間をつくったり、「わからないことは恥ずかしいことではない」という雰囲気作りも大切にしました。
新卒のときと何が変わったのか…。それは、教育現場ではよく言われる「ゆとり教育」ではなくなったことが大きいのではないかと思います。
新卒ではじめて6年生を受け持った子どもたちは、今は立派な成人、パパやママになっている子も多くいますが、「ゆとり教育世代は○○…」と悪いイメージをもたれるのが嫌だったといっています。実際は、まじめにコツコツと努力を重ねる子どもたち(今は、大人ですが…)。個人的には「ゆとり教育」のころの方が、子どもも教員も余裕があったなぁと感じます。
それに比べて、今の子どもたちは、本当に大変! 学ばなければいけないものも増え、新しい教科も増え、高学年は毎日のように6時間授業。疲れている表情の子が増えているような気がするのは、わたしだけでしょうか。
教員側からすると、たくさんの学習内容をどんどん教えていかないと、1年間で終わらないといった感じです。時間に追われ、どんどん授業は進めていかなくてはならない。個別でゆっくり…なんて、対応ができない状況です。「わからないままの子」はどんどんわからなくなっていく負のスパイラル。そんな状況に、心を痛めている先生もいるのではないでしょうか。
不登校の子どもが増え続けるわけ② 教員の多忙と教員不足
学校の外に出てみると、「先生って、放課後は暇なんでしょ!?」みたいな声が聞こえてきて、びっくりします。確かに、学校の外の人から見ると、「教員の仕事は子どもがいる間だけ」というイメージなのでしょう。
でも、子どもたちが帰ったあと、ものすごい勢いで雑務をこなしたり、会議で子どもたちのためにいろいろなことを話しあったり…、かなり忙しいです。
教員の多忙化が少しずつ知られるようになり、事務的な仕事だけをしてくれるスタッフがいる学校もあるようですが、わたしがいた学校では、すべて自分がやっていました。宿題チェック、一人ひとりのノートチェックと一言コメント、評価、その日にあった気になる行動などを記録、必要であれば保護者に連絡、次の日の教材の準備、お便りなどの印刷、それ以外に担任業務以外の仕事もあります。
それを子どもたちが帰って、教室を掃除し、整えたあとから、一気にとりかかる。教員の定時は17時前後ですが、それまでに終わらないことの方が多いです。
教員の数を増やすと、何がいいのか…。専科の先生が増えれば、担任の見る教科が減り、それに伴う教材研究やノートチェック、評価などの負担も減ります。実際、どのくらいの専科の授業があるのかは、学校や学年によって本当にまちまちなので、一律にしてほしいなぁと思っていました。
さて、長々と教員の多忙化と教員不足の現状を書いてきましたが、これが「不登校」と関係があるのか?と疑問に思った方もいるかもしれません。
教員の多忙化と「不登校」は関係があると思っています。実際、不登校の子がクラスにいると、放課後に家庭訪問をしたり、放課後登校の時間をとったりすることが多くあります。教員の多忙化が改善されれば、「不登校」の子どもたちにかかわる時間が増えます。保護者との面談もすぐにできるようになり、密に連絡を取り合うこともできるようになります。
「不登校」の子どもだけでなく、担任が受け持っている子どもたちとの時間が増えるということは、「不登校」を未然に防ぐことにもつながります。教員がゆとりをもって子どもたちと日々かかわることは、子どもたちの小さなSOSに気づき、変化を見逃さないことにもつながっていくからです。
不登校の子どもが増え続けるわけ③ コミュニケーションが苦手な子が増えている
これは、調査をしているわけではないので、個人的な感覚かもしれませんが、コミュニケーションが苦手な子が増えているように感じます。
「コミュニケーションが苦手」と一言でいっても、いろいろなタイプが考えられます。
・うまく言葉で伝えられず、手が出てしまうタイプ
・うまく言葉で伝えられず、暴言が出てしまうタイプ
・うまく言葉で伝えられず、だまって自分の感情にふたをしてしまうタイプ
・うまく言葉で伝えられないから、周りから誤解をされてしまうタイプ
・思っていることをうまく表現できず、孤立してしまうタイプ
・苦手な子への対応ができず、萎縮してしまうタイプ
あげていったら、もっと出てきます…。とにかく、同じ教室にたくさんの子どもたちが共存しているのだから、苦手な子がいたり、うまくコミュニケーションがとれない子がいたりするのは、当たり前。大切なことは、それに担任が気づいているか。対応しているか。だと思います。
「どの子も困っている」一人ひとりの状況をしっかり把握し、それぞれに対応することができればいいのですが、同じクラスに何人もコミュニケーションが苦手な子が集まると、対応しきれなくなってしまう場合も…。
少しずつ学校も変わり、担任だけがクラスの子どもたちをみるのではなく、個別にみる体制が整ってきてはいるものの、まだまだのところがあります。
コミュニケーションが苦手な子を、何も支援せずにそのままにしていると、いずれ「学校に行きたくない」となる子が出てくることも。
不登校の子どもが増え続けるわけ④ 子どもたちの多様化への対応
世界が「多様化」してきている今、子どもたちも多様化していると感じます。これは、けっして悪いことではないと思っています。一人ひとり「好きなこと」があって、「得意なこと」もあれば「苦手なこと」もある。一人ひとりが違っていい!
でも、その子どもたちの多様化のスピードに、教育現場がついていけているか…というと、少し遅れているのではないかと感じます。
じゃぁ、多様化を大事にして、授業を進めていく、学校生活を送っていくにはどうしたらいいのか?今の体制では、これまたむずかしいとも思うんです。
「一斉授業」を軸にしてきた日本の学校教育では、この「多様化」に合わせた教育を進めていくことは、かなりむずかしいのではないか…と。
コロナ禍でタブレット端末を使った授業が進み、少し変化の兆しは見えてきているものの、学校や教員のスキルによる差が生じているような気もします。オンライン授業が通常化すれば「不登校」の子も、家で学校の授業を受けたり、クラスの様子を感じたりできるのかなぁと期待していたのですが、一部の学校で「不登校の子にタブレットを貸し出さない」という話を聞き、驚愕…
まだまだ、学びの多様化には程遠いのかもしれません。
不登校の子どもが増え続けるわけ⑤ 日本独特の同調性
「出る杭は打たれる」経験をしたことがある方も多いではないでしょうか。
日本独特の周りと合わせる同調の美学。個人的には好きではありません。「みんなと違うことをやっていると一目おかれる」「みんなと同じことができないとダメだしされる」そんな同調性が、学校にもあるような気がします。
もちろん、学校の先生の中には、一人ひとりのよさを認め、そこを伸ばしてくれる人もいる。「みんなと違ってもいいよ」と声をかけてくれる人もいます。でも、残念なことに、中には「みんなと違う行動をするからダメな子」みたいなレッテルを先生自身が貼ってしまう人も…。
みんなと違う行動をとってしまうことは、集団生活では迷惑と感じられることもあるでしょう。でも、みんなと違う行動をとるからダメな子なのではなく、どんな支援をすれば集団生活になじめるのか、将来自立できるようになるのかを考えることが、教員の仕事だと思っています。
学校の外では同調性で孤立したり、疎外感を感じたりしても、学校と家庭の中は、その子をまるごと受け止める場所であってほしいと願います。自分が受け入れられている、そのまま受け止めてくれる人がいるというだけで、子どもは変わっていきます。
【まとめ】不登校の子どもは、社会の鏡!今、何ができるのかをもう一度考えよう。
えらそうに、つらつら書いてしまいましたが、今はすでに教員という立場を離れているからこそ、伝えることができるのかなと思っています。
「子どもは社会の鏡」大学時代によく言われていた言葉を、今になって思い出します。不登校の子どもたちが増えていることは、社会を映し出しているということなのでしょう。
わたしたち、大人が、「子どもたちに何ができるのか」を考え直すときなのかもしれません。教員だったからできることもありました。「今、教員ではない身だからできることは何か」を、自問自答してみたいと思っています。
「学校に行っていても、行っていなくても、あなたはすばらしい!」
もし、身近に不登校の子どもがいたら、ぜひそんな声をかけてあげてください。
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